ブログが完全に放置されたままだと、この人の実生活は果たしてどうなのだろう?実は交通事故にでも遭ってとうにお亡くなりになってやしないだろうか?などと心配しておりました。ネット上の名前しか知らずお会いした事もない方だし、お悔やみにもいけないなんて考えたりしたものです。本当にもうその方がこの世の方ではなかったとしたら、なんにもできません。ただただご冥福を祈ります。

もしそんな事を当ブログに関して思われた方がいたとしたら、すみません。僕はまだ生きています。

今年に入って・・・な、なんと5回目の更新です。

これで本当に「ブログやってる」なんて言えるんでしょうか?

いいじゃん。

過去記事はちゃっかり生きてるし。たまに訪問者もいるみたいだし。


いやはや、いろんなことが世の中には起きていて、溜息がでますわ。


僕も一度書くと、調子こいて続けやすくなる性分だし、古いものからというか、時期お構いなしにというか、もう書きたい事を書きます。


で、今日書くのはドラマの話ですよ。

鳩山さんとかのりぴーじゃありません。

巨人の3連覇でも楽天の躍進でもありません。


しかも、春に放送されたやつです。

フジテレビの「白い春」です。阿部寛が主演したやつ。

大橋のぞみの演技は実に素人っぽくて、というか「まだ子供だししょうがないよ」という低いレベルの為、見始めた頃はいやにぎくしゃく感を覚えました。それはムショ帰りを演じた阿部寛もそうです。どうなのかなぁ?安部ちゃんは本当の「いわゆる前科者」のどなたかに会って役作りをしたんだろうか?してないだろうな。あそこまで「おどおど」はしない気がする。僕もそんな人に会った事はないからわからないけど。

でも、大橋のぞみには慣れました。へただけど、時折見せるあの年頃の子供の「まんまの表情やしぐさ」が垣間見えて、違和感が薄れました。加えて忘れた頃に「もどかしさ」や「イライラ感」や「不安」や「怯え」といった、「(子供だからこそ)言葉にできない」或いは「(理由はよくわからないけど大人を困らせる事になるから)言っちゃいけない、言えない」という表情を顔にふっと浮かべるのです。またはあの子の顔にそれが浮かびます。彼女は彼女なりに役になりきって、精一杯やった事が出ていました。だから感情移入が次第に僕にも出来ました。

そうして安部ちゃんの方は、彼は「腐ったリンゴ」なんだから、色の悪さも漂うにおいも仕方がないのだなと、敢えてそういうものとして存在しているのだなと次第に合点が行きました。


お話が進むに従って気になるのは春夫とさちの行く末です。前科者である春夫が果たしてどうやってさちと一緒に暮らせるようになるのかならないのか?です。


僕は最終回でかなり憤りを覚えました。

番組のサイトを見ると、「感動した」とか「ありがとう」と言ったコメントが多く寄せられていましたが、「なんで?」と思いましたよ。僕には全く納得がいきませんでした。


作品における春夫の存在は、愛ゆえに過ちを犯した社会の落伍者です。真理子を思えばこそ、カタギになると決意し、真理子の命さえ担保出来ればそれが「彼女の幸せ」と考えて、組からの報酬を手術費に充てるよう友に託し、最愛の者に対して捨てゼリフで突き放し、己は涙に泣き濡れたのです。殺人ですから、残念ながら手法に誤りがありましたが、春夫にとっては真理子の手術費が捻出できるグッドなプランでした。いわば無償の愛だった。彼は無償の愛ゆえに人様の命を奪うという、一見美しく見えつつも実は浅薄で短絡的かつ身勝手な行為に及んだのです。根本的な間違いです。

ただ人は誰しも、多かれ少なかれ何らかの罪を犯して生きています。刑期を終えればその罪が全て「あがなえるのか?」と言えば、もちろんそんな事はないでしょう。重い十字架を背負ったまま生きていくしかありません。その罪は消えません。


前科者である彼はいわば「腐ったリンゴ」です。しかし、作品に描かれているように、彼は根っからの悪ではない。表面は腐っていても、時間の経過や人とのふれあいの中で次第にその部分は剥けていったはず。芯から腐っていたわけではない。周囲の人たちはそれを感じつつも、それでもやっぱり受け入れる事に心から同意しようとはしなかった。

春夫もそれを敏感に感じ取り、さちを村上に託して身を引く。人の命を奪った自分に娘を愛でる資格はない、と。娘の存在を知って動揺しながら、幸せを感じながらも、陰ながらさちの成長を楽しみに今後を生きようと決意していた。


それじゃぁ果たして、最終回はどのような着地点を用意しているのかと楽しみにしていました。そしたらば、因果応報とばかりにあの世に送ってしまいました。そんなお気楽でいいのか?人を殺したんだから、殺されてもしょうがない、ですか?あの結末は、春夫被告に死刑判決を出さなかった裁判所への不服申し立てですか?一人でも(殺意をもって)人を殺したら、初犯であろうが未成年であろうが死刑ですか?お話の中で、社会は春夫を受け入れようとはしませんでした。村上は頑張っていましたが、さちの父としてではなく、「一人の人間としては」受け入れようともがいていました。

だけど最終的には、「春夫に十字架を背負わせたままその後を生きる」だけでは視聴者を納得させられないと考えた。「最後には春夫に死んでもらう」という結末は、それが視聴者が納得する終わり方だというのは、ある意味で非常に危ない着地の仕方です。


その頃、ちょうど裁判員制度の開始が間近でした。罪に対する社会の処罰感情は近年増しており、命が奪われた事件では極刑を望む遺族が殆んどです。それは当然のことだとは思います。ただ、法を司る側が様々な事情を考慮して判決を出すのですから、そこには、その仕事に敬意を表すというのが常識的な姿勢だと僕は思うのです。あの結末は、人殺しがシャバに出てくるなんてとんでもない!という市民の声を反映していると僕は思いました。もし現実に殺人の前科を持つ人が近くに現れたら、「ドラマのように殺せ!」とは言わないにしても、「絶対に受け入れるな!」そして「社会的に抹殺せよ!」というあおりですよ。

危険極まりないと思います。


僕は、死刑制度は撤廃すべきではないかと思っています。死刑制度は、法律の名を借りて国家が犯す人殺しだからです。明らかな自己矛盾です。殺人を犯したものは、その罪を悔い改め、命の尊さを一生慈しみ、社会奉仕活動に従事すべきでしょう。冤罪によって死刑執行された人はどうなりますか?化けて出ます。過ちを犯すのが人間であり、裁判所の判決だって人が出すものです。

そこで出てくるのが裁判員制度ですが、あれは、「へたこいた」時の為に司法側が責任の所在をうやむやにする為に作り出したものと僕は思っています。何せ、合議の上で出す判決ですから。選任された方にはお気の毒としか言えません。


僕が思い描くドラマの結末のシナリオはこうです。

10年後くらいです。さちは大学の1年生です。春夫は仏門に入っています。さちは未だに春夫が実の父だとは知りません。墓場まで持っていく秘密でしょう。


さち「おじさんと一緒だと、な~んか落ち着くんだよねぇ」

春夫「な何だよ、それ」

さち「なんかわかんないけど、昔からそうなの。なんでかなぁ?」

春夫「おまえがいてくれて・・・よかったよ」

さち「え?よかったって・・・なにが?」

春夫「お・・・オレを怖がらなかったのは・・・お、おまえだけだったから・・・なんか友達が欲しかった・・・って感じかな?」

さち「えぇ~?・・・じゃぁ・・・おじさんもあの頃寂しかったんだね?」

春夫「・・・ま、まぁな」

さち「まぁ・・・私も大学生だしね。色々と忙しいんだけどさ、でもこれからも時々会いに来てあげるっ!」

春夫「・・・おぉ・・・あぁ、また来いよ!」


ってな会話でニコニコ笑いながら、二人で夕日を眺めてる。

そんなんでどう?